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マチネの終わりにの映画は共感できないしつまらない?感情移入できない理由を考察

マチネの終わりに

マチネの終わりに」が公開されましたね!

「洋子に感情移入して泣いた」「大人の恋愛が素敵だった」「クラシックギターの音色が心地よかった」など多くの方がこの映画を多角評価しているようです。

その一方で「共感できなかった」「感情移入できなかった」「あまり響かなかった」「物足りなかった」と感じる人もいるようです。

ここではそんな低評価の口コミに注目します。

なぜ映画「マチネの終わりに」には「共感できない」「感情移入できない」「響かない」と感じる人がいるのか、その理由を考えていきます。

なお私は小説を2回読み、映画は1回鑑賞しています。

 

マチネの終わりに「泣いた」「共感した」「よかった」など高評価の口コミ

低評価の口コミをご紹介する前にTwitterに寄せられた高評価の口コミをご紹介します。

高評価の口コミには

  • 小説の世界観がそのまま映画で表現されていた
  • 小説も映画もどっちも好き
  • 石田ゆり子がキレイだった
  • 福山雅治と石田ゆり子の表情がよかった
  • ギターの音色が心地よかった
  • 桜井ユキの演技がすばらしかった
  • 映像がきれいだった
  • 泣いた

こんな口コミが多かったです。

「マチネの終わりに」は「共感できない」「つまらない」「感情移入できない」など低評価の口コミ

次に低評価の口コミをご紹介します。

  • つまらない
  • 主人公の年齢設定が合っていない
  • せつないというほどでもない
  • 共感できない・感情移入できない

低評価のTweetには以上のようなものがありました。

では次に映画「マチネの終わりに」にこのような低評価の口コミがあるのか、その理由を考えていきます。

「マチネの終わりに」はなぜ「共感できない」「つまらない」「感情移入できない」のか?

「マチネの終わりに」の低評価には主に4つの理由があると考えています。

個人的には4番めの理由がもっとも大きいと考えています。

単純に肌に合わないから

あまり明確な理由とは言えないかもしれませんが、いくらいい映画でも肌に合わないと感じる方はいます。

「マチネの終わりに」は大人のラブストーリーです。

大人のラブストーリーに興味がない方はそもそも映画館に足を運ばないでしょう。

また石田ゆり子さん、福山雅治さんが好きではない方も映画を見ないと思います。

多くの方は事前に情報を仕入れ、観たいと思った映画、自分の好みに合うと思われる映画を観ます。

そうした上で映画を観たとしてもストーリー、演出、役者の演技、映像や音楽などが肌に合わず、面白くなく感じることはあるものです。

感性や感覚のことなので明確に理由を述べることはむずかしいですが、小説や映画には感覚的に合う、合わないはどうしても付きまとうと思います。

ですので多くの人が高く評価する「マチネの終わりに」にも、肌に合わないという方がいても不思議ではありません。

主人公の年齢が原作と合っていないから

主人公の年齢設定が合っていないため共感できない、という理由が考えられます。

「マチネの終わりに」の原作は蒔野38歳、洋子40歳が出会い、その後5年半の物語を描いています。

つまり原作の最後に再会するときは蒔野43歳、洋子45歳です。

一方映画は、公開時の年齢が福山さん、石田さんともに50歳です。

スクリーンに映し出される福山さん・石田さんは、世間一般の50歳にくらべたらお若いです。

特に石田さんはきれいだし、かわいいので、女性から見たら憧れでしょうし、男性から見たらこんな女性とお付き合いしてみたいと思う存在でしょう。

でも原作を知っているとできればもう少し若い俳優さんに演じてほしかった、という声があって当然です。

主人公の年齢が合っていないために低い評価をする方がいるのはもっともだと思います。

原作小説から省いているところが多すぎるから

「マチネの終わりに」の小説はある程度のボリュームがあります。

約2時間の映画にするに当たり、かなり多くの部分を省略しています。

省略してもストーリー上問題ないところもあります。

しかし省略したため「あの場面どうなってたんだろう?」と感じるところもあります。

例えば映画では蒔野は洋子と離ればなれになった後、場面が切り替わりいきなり数年後になります。

その時にはすでに蒔野は早苗と結婚しており、娘までいます。

同じように洋子もリチャードと結婚しており、しかも夫婦関係が悪くなるところまで話が行ってしまっています。

しかし小説では蒔野がどのような過程を経て早苗と結婚したか、しっかり記述されています。

結婚後の生活や様子、蒔野が考えていることなども描写されています。

洋子にしても同じで、蒔野と別れた後リチャードと結婚した過程や、不仲になっていく様子も描かれています。

このように登場人物の気持ちを知る上で大切と思われるところが省かれているため、小説を読まず映画を観ると状況が飲み込めず、今ひとつ感情移入ができないのでは、と考えています。

原作小説の心理描写が映画では表現されていないから

個人的には「マチネの終わりに」に「共感できない」「感情移入できない」と感じるのはこの理由がもっとも大きいと考えています。

小説にある細かくて精緻、繊細な登場人物の心理描写が、映画ではほとんど表現されていないという理由です。

小説「マチネの終わりに」の心理描写はとにかく細かいです。

表現はむずかしいですし、漢検1級レベルの漢字もときおり出てきますが、登場人物、特に洋子と蒔野の心理が細かに表現されています。

それに対して映画では細かい心理描写のほとんどが抜け落ちてしまっています。

例えば蒔野と洋子が2回めに会うシーン。

パリのレストランで再会した際、蒔野は洋子に「世界のどこかで洋子さんが死んだら僕も死ぬよ」というセリフがあります。

展開上このセリフがあってもおかしくはないのですが、原作未読の方にはちょっと唐突に感じたのではと思います。

この場面までの蒔野の心境は小説で細かに描写されていましたが、映画ではそこまで詳しく表現されていなかったからです。

また問題となる早苗が偽メールを送るシーン。

ここでの早苗の心理描写も小説ではかなり細かにされています。

蒔野への思いや早苗への嫉妬心、自分が蒔野と洋子をくっつける手伝いをしていることへの葛藤や嫌悪感などが活字で繊細に表現されてています。

映画での桜井ユキさんの緊迫感あふれる演技は見事で、その心理はよく伝わってきました。

しかし小説とくらべると物足りなさを感じてしまいます。

偽メール後の蒔野と洋子についても同じで、映画では十分に描かれていたとは言えません。

また小説では主人公2人が別々の人生を歩んでから、ことあるごとに相手を思い出し、会いたい気持ちと葛藤し、苦悩する心の描写がとても繊細に描かれていました。

映画ではその部分の心理描写はほとんどありません。

さらにもう一つあげると、最後のコンサートのシーンでの洋子の心理描写です。

小説では洋子が蒔野のコンサートに行く前から、コンサートのアンコールで蒔野が「幸福の硬貨」を演奏するまでの心理状態が鮮明に表現されています。

コンサートに行ってからの舞台上の蒔野の姿を見たときの心理や、音楽を聞いている間の洋子の機微が手にとるようにわかります。

ここで多くの読者は洋子に激しく感情移入します。

残念ながら映画ではこのシーンの尺が短いですし、洋子の心理は彼女が泣くわずかなシーンだけでしか表現されていません。

そのため洋子に感情移入できない方がいるのです。

ここで挙げた理由は小説を読んで映画を見た方に当てはまる理由です。

小説では登場人物の心理描写が細かにされていて共感したのに、映画ではそれがほとんどされていないため

  • 共感できない
  • 感情移入できない
  • 小説には及ばない
  • 小説とは別物

と感じてしまうのです。

実は私にもこの理由は当てはまっています。

私の映画鑑賞後の率直な感想は「物足りない」です。

わたしの感想は詳しくはこちらの記事にまとめてあるので参考にしてみてください。

関連記事:マチネの終わりに感想!映画と小説の比較や不満点・原作超えしていない理由も

まとめ

映画「マチネの終わりに」が「共感できない」「つまらない」「感情移入できない」理由は

  • 単純に肌に合わないから
  • 主人公の年齢が原作と合っていないから
  • 原作小説から省いているところが多すぎるから
  • 原作小説の心理描写が映画では表現されていないから

繰り返し述べますが4つ目の理由が一番大きいと考えています。

小説を先に読んだ方に当てはまる理由です。

映画はきれいな映像、耳に心地よい音楽、すばらしい役者の演技、映画館の雰囲気など、小説にはない魅力があります。

小説には映画にはない登場人物の精緻な心理描写があります。

それぞれ違った楽しみ方をすればいいのでしょうが、私も含めて先に原作を読んだ方の中には、映画は原作に及ばないと感じる方もいます。

私はもう一度(3回目)小説を読んで、しばらくしてからまた映画を観るつもりです。

そのときにまた違った感じ方ができればいいと思っています。

最後まで読んでいただきありがとうございました!

 

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