アニメ「啄木鳥探偵處」(きつつきたんていどころ)は、歌人の石川啄木が探偵業をするという奇抜な推理作品です。
私はアニメ放送の先駆けて原作小説を読みましたが、推理がおもしろく、時代背景もうまく取り込まれており、興味深く読むことができました。
さてアニメ「啄木鳥探偵處」には東京帝国大の学生・野村胡堂が登場。
胡堂は後に小説家として「銭形平次捕物控」を書く人物です。
アニメ「啄木鳥探偵處」で野村胡堂は石川啄木や金田一京助と親しく付き合っていますが、実際にどんな接点があったのか、解説します。
また野村胡堂をご存知のない方のために
- 野村胡堂の経歴
- 代表作・銭形平次捕物控
についてもまとめました!
目次
野村胡堂は石川啄木や金田一京助と接点があったのか?
野村胡堂・啄木・金田一は盛岡中の同窓生
野村胡堂が石川啄木、金田一京助と接点があったことは事実です。
接点どころか3人はかなり深い付き合いをしていました。
上に用意したのはアニメ「啄木鳥探偵處」の登場人物の相関図の一部ですが、ここにあるように3人はともに岩手県出身で、盛岡中学校(現在の岩手県立盛岡第一高校)に在校していました。
野村胡堂と金田一京助が同級生、その3年後輩が石川啄木という関係です。
なお1909年には宮沢賢治が入学したといいますから、盛岡中恐るべしですね(笑。
啄木に俳句の手ほどきをしたのは胡堂
野村胡堂と金田一京介は盛岡中卒業後に東京帝国大学に入学します。
ただ大学在学中に胡堂の父親が死去したため、学費が続かず退学。
それでも胡堂と金田一の付き合いはその後も続き、胡堂の葬儀では金田一京助が葬儀委員長を務めました。
また野村胡堂と石川啄木も高校時代から付き合いがあり、啄木に俳句や短歌の手ほどきをしたのは胡堂と言われています。
のちに天才と言われる啄木に俳句や短歌を教えたというのですから、野村胡堂の才能はすごかったことが想像できます。
また生活が不安定な啄木に金銭を工面したこともあるといいますから、面倒見がよい人物だったことがうかがえます。
片や80歳の人生を全うした作家、片や26歳で夭逝した歌人。
対照的な2人が高校時代に出会っているというのはなんとも不思議な印象を受けます。
なお詩人の郷原宏さんが野村胡堂と石川啄木の交流を描いた「胡堂と啄木」という本を執筆しています。
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読み応えがあるとの評判なので、興味がある方は一度手にとって見てはいかがでしょうか。
野村胡堂の経歴
- 本名:野村長一(のむらおさかず)
- 生年月日:1882年10月15日
- 出身地:岩手県紫波郡彦部村
- 学歴:盛岡中学→東京帝国大学中退
- 死没:1963年4月14日
- 職業:作家・音楽評論家
「水滸伝」「絵本太閤記」を読みふけった小学校時代
野村胡堂は1882年(明治15年)に岩手県紫波郡彦部村に彦部村村長の野村長四郎の次男として生まれます。
家は農業をやっており、かなりの農村地区の出身だったようです。
なお胡堂が生まれた1882年は上野動物園開演、、自由党党首の板垣退助が遊説中に暴漢に襲われる、 東京専門学校(後の早稲田大学)設立などの出来事がありました。
胡堂は紫波高等小学校に通っていたときには家が全焼する不幸に見舞われますが、そんな経験をしつつも小学生の頃は「水滸伝」や「絵本太閤記」を読むような文学少年でした。
のちに胡堂は投げ銭をする銭形平次を書きますが、「水滸伝」に登場する没羽箭張清が投げ石を得意としていたことが平次の投げ銭のヒントになったと言われています。
学生時代はコンパに勤しむ?
胡堂は1896年盛岡中学校に入学し、卒業すると東京帝国大学に進学します。
学生時代の胡堂は友人を集めよくコンパを開いていました。
酒が好きだったこともあり、あらゆる種類のアルコールを嗜みましたが、ビールを初めて口にしたのはこの時期だったと言います。
後に胡堂が書いた報知新聞の記事には、初めて口にする苦いビールの味に戸惑い、どうやったらこの味が好きになれるのか、と当時の思いが綴ってありました。
アニメ「啄木鳥探偵處」にあるように、胡堂は東京で石川啄木、金田一京助らと酒を酌み交わし、いろいろなことを歓談していたののかもしれませんね。
父の死去により大学退学・新聞記者に
東京帝国大に通っていた胡堂ですが、卒業を目前にして父親が死去し、学費が続かなくなったためやむなく退学。
報知新聞社に入社し政治部に配属され、記者として活動し始めます。
胡堂が報知新聞社に入社した1912年は、長州出身・陸軍閥の桂太郎の組閣に対して第一次護憲運動が起こり、のちの大正政変につながっていく時期です。
胡堂は政治部記者として、この時期の政治の有様を目の当たりにしていたと思われます。
新聞社では社会部夕刊主任、社会部長、調査部長兼学芸部長、編集局相談役を歴任しました。
西洋音楽の普及に尽力
胡堂は学生時代に日比谷音楽堂で演奏会を聴いたことがきっかけで西洋音楽に興味を持つようになります。
この時代には海外のクラシックコンサートが収められたレコードが手に入るようになり、胡堂はレコードを収集しては西洋音楽を聞いていました。
しかし米1俵が8円20銭のこの時代にレコードは1枚20円とかなり高価なものでした。
胡堂は記者になり結婚してからも給料のほとんどをレコードに費やしていたため、妻が生活費を稼いでいたと言われています。
ただ胡堂がすごいのはレコード収集を単なる趣味に終わらせなかったこと。
「あらえびす」のペンネームでレコードを評論する記事を書いたり、レコードの専門雑誌を出版したり、全国各地を飛び回りレコードコンサートを開いたり、と新聞記者の仕事をしながら西洋音楽の普及に尽力しました。
とくにレコードコンサートは好評だったようで、全国各地からの要望を受けコンサートを開いていました。
なお野村胡堂の著書や収集されたレコード、書籍などの貴重な文化遺産を保存するため、岩手県紫波町に野村胡堂・あらえびす記念館が1995年に建てられました。
ここでは胡堂が残した文化財に触れられるだけでなく、レコードコンサートや川柳コンテストなども催しているようです。
野村胡堂の代表作「銭形平次捕物控」について
野村胡堂の小説家としての代表作に「銭形平次捕物控」があります。
この作品はテレビドラマや映画にもなりましたが、最も新しいドラマが終了したのが2005年ですから、若い方はご存じないかもしれません。
そこでここでは野村胡堂の代表作「銭形平次捕物控」について解説します。
「銭形平次捕物控」とは?
1931年、46歳の胡堂は「文藝春秋オール読物号」に銭形平次を主人公にした小説の連載を開始します。
胡堂は75歳になるまでの26年間で、長編・短編あわせて383編の「銭形平次捕物控」を発表します。
江戸時代の話ですが、正確にいつの頃なのかはっきりしません。
作品初期の頃は江戸時代初期の寛永年間を舞台にしていましたが、30話以降は第11代将軍徳川家斉の大御所政治の時代になっているからです。
子分の八五郎が持ち込んでくる事件を岡っ引の平次が鮮やかに解決していくという話で、何度もドラマや映画になりました。
主人公平次はとても人情家の性格で、ときには犯人を思いやり犯罪に目をつぶることさえあります。
また時代劇によくあるチャンバラシーンは少ないのもこの作品の特徴です。
銭形平次の人情味あふれる性格は、胡堂自身が持つやさしい性格が映し出されていたのかもしれません。
「銭形平次捕物控」誕生秘話
雑誌の編集長から作品を依頼された胡堂は、まず主役のキャラクター作りから開始します。
胡堂が作品の構想を練っていたとき、工事現場で「錢高組」の看板をたまたま目にすると、主人公の名字を「銭形」に、そして銭を投げるキャラクターにします。
胡堂が学生の頃読んでいた「水滸伝」に登場する没羽箭張清(ぼつうせんちょうせい)が投石を得意としていたことも、銭を投げるキャラクターにつながったと言います。
「平次」という名前は自分が平民の二男に生まれたからだとか?
こうして「銭形平次」という主人公が誕生し、後の人気作品につながっていきます。
なお俳優で歌手の福山雅治さんは小さい頃から「銭形平次」のテーマ曲が好きだそうです。
舟木一夫さんバージョンとは違った魅力があるのでご紹介しますね!
まとめ
野村胡堂と石川啄木・金田一京助は
- 岩手県盛岡中学校で出会い、その後も付き合いがあった
- 野村胡堂は石川啄木に俳句や短歌の手ほどきをした
- 野村胡堂は小学生の時「水滸伝」「絵本太閤記」を読んでおり、それが「銭形平次捕物控」のヒントにもなった
- 酒が好きで学生時代はよくコンパをやっていた
- 政治部の新聞記者になり、西洋音楽の普及にも一役買った
また代表作「銭形平次捕物控」についても解説しました。
最後までご覧いただきありがとうございました!